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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

オランダ領東インド( - りょうひがし - )は、かつてオランダ宗主国として支配した東南アジア島嶼部に存在した植民地国家、あるいはその領域をさす名称である。その支配領域は、ほぼ今日のインドネシア(2005年現在)の版図にあたる。

オランダによる東インド支配について「300年(または350年)におよぶ植民地支配」という呼び方があるが、今日のインドネシアの版図をあらわす「サバン(スマトラ島最西北部にある町)からムラウケ(ニューギニア島最東端の町)まで」の領域をオランダがほぼ完全に掌握したのは20世紀初頭のことである。

原語(オランダ語)では「Nederlands-Indië」、英字では「Dutch East Indies」と表記する。戦前の日本では漢語表記の「蘭領東印度」から「蘭印」の略字がよく用いられた。

オランダ人がこの海域に到来するようになったのは16世紀末のことである。ポルトガルの植民地などで働いたオランダ人リンスホーテンの情報により、1596年、オランダのハウトマンの船団がスンダ海峡に面したジャワ島西北岸のバンテン港に到達した。

ハウトマンは、胡椒交易で繁栄していたバンテン王国とのあいだで交易関係を築くこと目論んだが、結局その試みは失敗し、暴力的略奪と住民殺害によってわずかの香辛料を本国に持ち帰るだけに終わった。

ただ、マダガスカルからインド洋をこえてジャワに到る、オランダ人にとっての新航路を開設したことの意義は大きく、また、彼の帰還によって、オランダでは東方航海への関心が高まった。

1598年、オランダはバンテン王国によってバンテンに商館を設置することを許可され、さらに東方貿易を一元化するため、1602年、「オランダ東インド会社」(Verenigde Oostindische Compagnie、以下VOCと略す)を設立、1609年には、この商館における活動を統括する「東インド総督」を置いた。

しかし、VOCは、バンテンでは王国に警戒されて思うような交易上の成果をあげることができなかったため、1619年、バンテン東方に位置するジャヤカルタ(現在のジャカルタ)に新たに商館を設置、この地を「バタヴィア」と改めて、オランダ東方貿易の拠点として、都市建設をすすめていった。VOCはその後、マルク諸島での香料独占をはかるため、アンボン島でのポルトガル人排除、バンダ諸島征服などによって、貿易独占の達成に成功した。

このようにVOCは、当初、港と商館を中心とする交易独占によって利益をあげていたが、17世紀後半からジャワ島内陸部へと進出し、領土獲得に熱意をみせるようになった。すなわち、獲得した領土で当時の有力商品であるコーヒーなどを栽培し、これを輸出することで利益をあげるためである。いわゆる「点と線」の支配から「面」の支配への転換をはかろうとしたのである。

VOCは、ジャワ島内部の王朝間での戦争や、各王家内での後継者争いなどに介入することで、17世紀後半にはマタラム王国を衰退させ、そして1752年にはバンテン王国を属国とすることに成功した。しかし、領土獲得のために要した莫大な戦費と、会社自体の放漫経営のために、VOCの経営は悪化し、1798年、VOCは解散することになった。その後を引き継いで植民地経営にあたったのは、本国オランダ政府である。

東インドの領土、財産、負債などの一切をVOCから受け継いだオランダ政府であったが、19世紀初頭、フランス革命以降のヨーロッパ政局の混乱の波に襲われた(ナポレオン戦争の項を参照)。オランダ本国はフランスに併合され、また、オランダの海外領土はイギリスの統治をうけることになったのである。

1811年から1816年まで、ジャワ島の植民地経営にあたったのは、東南アジアにおけるイギリスの植民地経営に中心的な役割を果たしていたラッフルズである。そのラッフルズのジャワ島経営は短期間に終わったが[1]、彼のもとで開始された土地測量や税制改革は、その後のオランダによる植民地経営にも一部引き継がれた。

1814年、オランダとイギリスのあいだで締結されたロンドン条約では、オランダがスマトラ島を、イギリスがマレー半島を、それぞれ影響圏におくことを相互に承認した。今日のインドネシア・マレーシア間のマラッカ海峡に大きな国境線が引かれることになったのは、この条約に端を発するものである。

1820年代から1830年代にかけて、オランダは深刻な財政危機に直面した。1830年ベルギーが分離独立したため、オランダ本国は有力な工業地帯を失った。また、東インドでは、1825年ジャワ島のマタラム王家のディポヌゴロをリーダーとする反乱(ジャワ戦争)が起こり、同時期にスマトラ島でも、イスラーム改革派(パドリ派)と反パドリ派の対立に端を発するパドリ戦争が起こったため、軍事費が増大した。

こうしたオランダ本国の財政状態を改善するため、東インドに導入されたのが「栽培制度」(日本では「強制栽培制度」と訳されることが多い)である。これは、現地住民に指定の農作物を強制的に栽培させ、植民地政府が独占的に買い上げるというものであった。指定栽培されたのは、コーヒーサトウキビインディゴ)、タバコなど、国際市場で有望な農産物である。東インド植民地政府は、農産物をヨーロッパなどへ転売して莫大な利益をあげた。

この制度はオランダ本国の財政赤字を解消しただけでなく、産業革命期に入りつつあったオランダのインフラ整備にも大きく貢献した。しかし、同時に、オランダ経済の東インドへの依存度を高めることにもなった。

この制度は、栽培を強制された住民には大きな負担となった。収穫された農作物は、植民地政府の指定する安い価格で強制的に買い上げられた。さらに、従来稲作をおこなってきた水田で、アイやサトウキビなどの商業作物の栽培が強制されたため、凶作が重なると深刻な飢饉を招くこともあり、餓死者も出た。一方、この制度の施行期間中にジャワ島の人口がほぼ倍増したことを指摘して、暗黒面だけを強調するのは妥当ではないとする意見もある[2]

強制栽培制度による現地住民の苦役と飢餓の実態は、小説『マックス・ハーフェラール Max Havelaar 』によって告発された。東インドで勤務した経験を持つオランダ人ダウエス・デッケルが、ムルタトゥーリの筆名で1860年に発表したこの作品は、オランダ文学の古典とされる[3]。この小説はオランダ本国で大きな反響を呼び、強制栽培制度を非難する声が高まった。このため、1860年代以降、同制度は国際競争力のなくなった品目から順に、廃止されていった。

また、農作物に代わる新たな産物として、産業革命による石油資源の国際市場における重要度の高まりを受け、油田の開発が始められた。1883年スマトラ島東岸での試掘が許可され、1885年に採掘に成功した。試掘に当たったロイヤル・ダッチ社は、今日のロイヤル・ダッチ・シェルの前身である。

1940年5月15日ドイツの侵攻をうけて宗主国オランダは降伏した。以後、第二次世界大戦終結までオランダ本国はドイツの占領下におかれた。一方のオランダ領東インドは、1942年2月末に日本軍による侵攻をうけ、10日ほどの戦闘の後、在東インド植民地軍は全面降伏し、以後、東インド全域が日本の軍政下に置かれた。「オランダによる350年の東インド支配」が実質的に終了したのである。

詳細は蘭印作戦を参照

その後、1945年に日本が連合国に降伏すると、8月17日、高名な民族主義運動の活動家、スカルノハッタが「民族の名において」インドネシアの独立を宣言した。オランダはその独立を認めず、東インドを再植民地化しようとしたが、武装勢力(正規軍・非正規軍を問わず)との武力衝突が頻発した。かつて「オランダ領東インド」と呼ばれた領域は「インドネシア」として生まれ変わった姿で、オランダの再来を拒んだのである。戦争は4年の歳月を経て和平合意に至り、インドネシア連邦共和国の成立が承認された。

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